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このスペルで登場した語群を列挙してみる。
信・疑
不信・不疑
無信・無疑
可信・可疑
不可信・不可疑
非可信・非可疑
眺めてみると、否定的な「不・無・非」の捉え方の違いで解釈の差異を生む、ということが推測できる。
可信・可疑。これらは登場していないが、後半語群の理解の助力として追加した可能動詞だ。これがないと、「不〜」「非〜」が成り立たない。
平たく、「信・疑チーム」と「可信・可疑チーム」である。
この2チームを眺めていると、また新たな疑問が生まれる。否定的な「不・無・非」の在り方だ。
非信・非疑
無可信・無可疑
これらの語群が現れていないことに気付く。というより、そんな言葉は最初から存在しないのだろう。
造語もいいところだが、意義解釈に努めてみる。
非信
漢語的に「信に非ず」と解釈すると、「無信」と同等なのか? つまり「非信」とは「信のない状態」なのか、という問いである。
否、能動に状態定義は成し得ない。状態定義とは完全な客観であって主観では決して成り立たないのだ。それは天候などが主観で左右されないことからも容易に理解に至る。気の持ちようでどうにかできるのは自身の心情のみだ。
非信 != 無信
非疑
こちらも同様に「疑に非ず」と解釈してみる。そこで「無疑」と同等か、という問い。「非疑」とは「疑のない状態」なのか──。
逡巡、やはり、こちらも成り立たない。
非疑 != 無疑
無可信・無可疑
これらはアビリティの話だ。能力の有無。それらが「無」で打ち消されている、ということは──単純に可哀想だ。
ちょっと、横道に。
「可哀想」というのは、「哀しく想うことが可能である」という可能動詞であると同時に、「哀しく想う可く」という命令形が含まれている。
つまり、これ以外の言葉にも遣われている「可」には、アビリティと共に「そうすべし」という命令が含まれているのだ。
巻き戻して、
無可信
信ず可くこと(もの)が無い。
無可疑
疑う可くこと(もの)が無い。
こう解釈すると、前者は可哀想なままだが、後者に至っては聖人君子が後光をまとって降臨し、一陣の涼風が吹き抜けてゆくようだ。
内面に巣食う魔窟ヘドロが一瞬にして浄化される。
或いは、こちらも反語的解釈が成り立つ。
信ず可くも無く→信じるべきか?→否、疑うべきだ
疑う可くも無く→疑うべきか?→否、信じるべきだ
ところで、「イ(にんべん)」に「可」で「何」だが、一体、何の可能性と命令が含まれているのだろうか?
閑話休題。
「用人不疑、疑人不用」から、よくもまぁ、これだけ捻り出せるものだ。自画自賛ながら感心する。
──などと嘯きながら脳内会議の相手に共感を募る。
「今回のスペル、結構よくなくね?」
「や、どーでもよくなくね?」
「何でよ? 泣く泣く捻り出したのに、よくなくねってマジなくなくね?」
「つか、付加疑問ばかりで共感得ようとするのってマジウザくね?」
「付加疑問って?」
「え? 『よくなくね?』とか『なくなくね?』とか全部、付加疑問じゃね? そんなことも知らないでしゃべくるとかマジ有り得なくね?」
「や、有り得なくねとか結構マジ無理。マジ勘弁。めちゃ凹むわぁ〜」
「つか、今どきこんな喋りしてる奴マジ居なくね?」
「分かりみ〜」
そんな感じで♪
*2016.12.13・草稿
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Tags: 否定, 理解, 用人不疑, 疑人不用, 義, 草稿
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