[エッセイ/随想]能動的に愛するという奇跡
(2018/11/17 00:00:28)


他人というのは驚くほど自分のことを考えてくれない生き物だ。
踏まえて、他人に愛されるということが、どれほど奇跡であるのか、ということを思い知らされる。

これは被害妄想的な意味合いではなく、お互いにそうなのだから致し方ない。斟酌や忖度が空想上の幻獣らと何ら変わらないことを知り至る。

同時に、独善的に他人を思い遣るということが、どれほど恣意に基づいているのか、ということも知り得る。以前、差別の元凶として説いたが、恐らく大外しはしていない。

差別、特別、区別、分別、等々。
幾らボキャブラリーを変えたところで「別」という言葉が入る以上、同じではないということを事更に主張しているだけだ。

差別扱いは良くないが特別扱いは良い。

この思想そのものが差別がなくならないことを示唆している。

或いは、特別扱いという差別扱いに気付かない、気付いていない、という自分本位を如実にしているだけかも知れない。


友愛、母性愛、親子愛。
これら以外の愛には必ず条件が付随する。

ともすると、友愛を育むためにも条件が付随していると云える、それに気付かぬフリをしているだけで。

暗黙知や同調圧力とは似て非なるもの。
それが友であるための条件。

やはり、血族でない以上、他人であるという意識が勝るのだろう。
ま、個体差がある以上、身内といえども他人な訳だが…さておき。

血族関係とは、相互に選択の自由がない。
宿る命を宿命とするならば、血族関係がそれに当たるのだろう。自らの意思がそこに介在することはない。

何の因果でその関係を結ぶに至ったか。
宗教的な解釈が初めて顔を覗かせる。

これも奇跡のひとつなのだ、と思い知る。
人智の及ばぬ領域での理が司っている因なのだ、と。


愛を説いたキリストの理が思い浮かぶ。
愛をポジティブ要素の頂として捉えると些か解釈が変わるが、愛を絶対的な要素として捉えると、彼の正しさが理解できる。

愛がすべて。

これは「愛することが大事」だとか「愛がすべてを救う」だとか、そういった意味合いを唱えている訳ではない。現世の状況を端的に表現しているだけの言葉なのだ。

例えば、「愛」という図鑑の類いをイメージすると分かり易い。
その図鑑の中には凡そ愛の対極と思われがちな「憎しみ」や「哀しみ」など、すべてのネガティブ要素をも網羅されている筈だ、「すべて」なのだから。

彼は「許す・許さない」についても説いた。
それは許す人と許さない人に分かれる、ということを説いているのと同等である。踏まえて、それらを内包するのが「愛」なのだ、と。

愛がすべて、ということがその通りである、ということを素直に認めざるを得ない。両極を内包し、矛盾を呑め、と。


時代の正義が常に変動している中にあっても、普遍的な絶対正義というものが存在する。

それは他人を愛する、ということだ。

そこで冒頭に戻る。
愛される、ということは受動的であり、自身で制御することは難しい。その奇跡を乞うより、自らが進み出て奇跡を敢行すれば良いのだ。

無駄に、無謀に他人を愛せよ。

相手にとって好都合と思われることをする、こちらの独善的な好意が伝われば、相思相愛という奇跡が常人でも簡単に実現する。

奇跡は奇跡という枠組みを失う。


──そんな夢想を描き、口許を緩める。

僕の中には幾つの奇跡が通り過ぎて行ったのだろうか。
音信不通の過去の永遠らの身を案じながら、定まらぬ自身の足許を見て、再び口許を緩める。


高嶺の花に独善的な想いを寄せるのは無謀とは呼ばない。
それは「自棄(やけ)のヤンパチ、身の程知らず。アタシャ入れ歯で歯が立たないよ」と呼ぶ。

無謀とは、自暴自棄とは似て非なるもの。余計な駆け引き抜きで、無策で、謀(はかりごと)なしで他人に臨む、という意味だ。

呉々もご自愛くださいませ☆

*2018.11.03・草稿

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