黒のハーフコート。長い脚は黒のパンツルック。夜の闇に溶け込むような黒装束が細い肢体を更に引き締める。
バッグの色に合わせた深い赤紫のヒールが攻撃的に尖る。舐め廻すように視線を這わせると、男の口許に笑みがこぼれる。
周囲を憚るように大き目のサングラスで表情を覆っていたが、男の口許にも照れ笑いがこぼれる。
「やぁ、今、携帯鳴らそうと思ってた」
「そう。今、どうして一瞬間が?」
「みとれてた」
「またまた」
内心の動揺を隠すために、開口一番、精一杯の軽口を叩く。それを見透かすような女の眼差しが悩ましい。
「では、参りましょうか」
「ええ。宜しく」
エスカレーターを昇り、改札を抜ける。電車を待つためにベンチに腰掛ける。気の利いた会話もなく暫く沈黙していたが、程なく陽気な鼻歌が流れてきた。ふたりとも顔を見合わせる。
「ご機嫌だねぇ〜」
「ね」
「ノリがラテンだよねぇ」
「うふふ。そうかも」
場繋ぎトークをさせたら右に出る者は居ない。
ラテンシンガーを称えるように電車がホームに滑り込んできた。ふたりはベンチから腰を上げた。男は女を先に乗車させると、一番左端の席を指し示した。坐るのを見届けてから隣りに坐る。
先程のラテンシンガーもどう云う訳か同じ車輌に。しかも、真正面。再び、顔を見合わせるふたり。
「ヤバイな…」
「え? どうして?」
「監視員だ……」
そんな会話もそこそこ。前置き棚上げ。すぐに独自の空間領域で寓話を語り出した。心のアップビートに合せて電車もビートを刻む。
途中、二度ほど乗り換え、目的の駅に到着した。駅前の喧噪を抜け、ガードを左頭に睨みながら右に折れた。1階のラーメン屋を横目にビルの階段を昇る。
ゴシックな装飾が施された少し重たいドアを開けると、照明の落とされた薄暗い空間が広がる。中央のテーブル席には先客が5、6人陣取っていた。店内に設置されたDJブースでは男の知らない男が皿を廻していた。
男は臆することなく陽気な笑顔を振りまいた。笑顔が向けられる。
「お。いらっしゃい。久し振りじゃん」
カウンターからイカしたマスターが声を掛けてきた。
「オーイエー。久し振り」
男は片手を上げて応えながら女をカウンター席に手招いた。背の高いスツールだが、女の脚の長さには丁度良かった。多分、ジーンズなども裾を切らないで済むのだろう。
女の子店員からおしぼりを受け取り、ニヤけながら腰を降ろす。
「──ちゃん、お久し振りー」
男は可愛らしい女の子の名前を忘れない。女の子も嬉しそうに笑顔で応える。
「ホント、すごい久し振りじゃん。何してたの?」
「ん?」
「どっか行ってたの?」
「ああ。千葉行ってた」
「千葉!?」
「ああ。落花生作ってた」
「落花生!?」
「うん。千葉って落花生が特産品でしょ?」
「うん。まぁそうだけど…」
「ちょとピーナッツが喰いたくてね」
「そんなのコンビニ行けば…」
「まぁま。いろいろあんだよ」
「まぁねぃ…」
この男に掛かると、きちんとした会話が成り立たない。マスターもはぐらかされるのは性に合わない。深く事情を聞いたところで、手に負えることと負えないことに分かれる。扱いに慣れてるマスターは厨房の奥に引っ込み、鍋の火加減を調整する。
「まだボトル残ってるかなぁ?」
「うん? ああ。あると思うよ」
「じゃ、ロックで──君は何にする?」
「うん。今、メニュー見てた」
「大丈夫。飲みたいもの云ってご覧よ」
「うん」
「ない物以外、何でもあるから」
「それは…」
男が愉快そうに笑う。
「ああ。この人、馬鹿だから放っといていいから」
マスターが小気味よく合いの手を入れる。
「あなたは何飲むの?」
「ん? 僕はジャック・ダニエル」
「そう」
「ここにはロクなバーボンないからねぇ」
マスターの眉がぴくりと動く。
「キツイよね?」
「んー… 女の子にゃちょとキツイかも」
「そか」
「何? 同じの飲みたいの?」
「うん」
「そか。じゃ、割ればいいか」
「何で?」
「ソーダかジンジャーエールだね」
「じゃ、ジンジャーエールで」
「お。バックスタイルだ」
「バック?」
「そそ。ジンジャー割りを『バックスタイル』って云うんだ」
「へぇ〜そうなんだぁ〜」
「うん。綴りはBUCKね。例の…のバックとは違うの」
男がニヤリと笑う。
「んもぅ…」
「うふふ。おバカでごめんなさいねぇ〜」
アルコールが入る前からこんな調子だ。先が思いやられるが、細かいことは気にしない。気にならない。気にしなさいw
ジャック・ダニエルのボトルが底を尽き掛けた頃、男は別の店のことが気掛かりになっていた。
会計を済ませ、挨拶もそこそこ、タクシーで向かった。
道中、タクシーの運転手相手に某かの説法をしていた。年の頃なら50代半ばと云った彼だったが、しきりに頷いていたのが印象に残る。
坂道の始まり附近にあるその店は、とある居酒屋の2号店だ。1号店は居酒屋。2号店はバー。それ程の広さはなく、こじんまりと云った具合だ。
どちらも居心地よかったが、照明の明るさで2号店贔屓と云えた。アルコールで脳を麻痺させるのに角膜を刺激するのは煩わしい。それに少し見えないくらいが悪戯するのにも都合がいい。
タクシーが到着するや否や、店主が店先に立っていた。丁度、受話器片手で店内の喧噪を避けてのタイミングだった。
「ああ。いらっしゃいー。うわ。嬉しいー」
店主は女の子。いろいろと相談にも乗ったが、人には歴史がある。時は流れるのではなく積み重なってゆく。威風凛々とした佇まいが程よいオーラを纏っていた。
「わざわざ来てくれたんですかー?」
「うん。ちょっとね」
「うわー。ホントに嬉しいー」
男は柄にもなく照れ笑いを浮かべる。女は黙って男の後に続く。
店内は割とごった返していた。大音響を轟かせ大賑わいだった。男はこの狂乱ぶりが嫌いではない。
昼間の顔やその他のペルソナ。雁字搦めの鎧。プロテクター。酒場には、それら要素がまるで意味を成さない。ここに集まる者は一様に、脳波のイカれた、或いは、寂しさを埋める者たち。
男には嬌声が轟く中でも魂の叫びが聞こえると云う。中途半端な上から目線ではなく、凌駕する者の余裕とそれらを愛でる精神悦楽が男の原動力だったりするのだ。
懐かしい面々が男を迎え入れた。酒を注文する前にカラオケのリクエストが入る。
安いパフォーマンスだが、男は満足げだった。安心感、安堵感とは違った心地好さに身を委ねていた。
狂乱の最中、閉店を迎え、近所の居酒屋へと河岸を移す。生き残った百戦錬磨の強者共が待ち構えていた。
空いている席に割り込むように坐ると、男は女に視線を投げた。女は竜巻旋風の中にあっても物怖じせず凛としていた。
いい女だ。絡み合わせた視線で会話する。
途中、何人かの脱落者を葬り、やがて、店主が看板を告げた。夢から醒めたように闘いを終えた戦士たちが方々の帰途に着く。
「ごめんね…」
不意に男が女に侘びる。
「びっくりした?」
「いえ。楽しかったわ」
「そう。でも、疲れたろ?」
「んー… ちょっとね」
「ごめんよ──」
男がもう一度侘びた。男の少し前を歩いていた女が振り返り様に、
「謝っても許してあげない──」
と微笑んだ。
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