読書とは、著者の既知のお裾分け。
──以前、僕が綴ったことだが、突き詰めると、ここに収斂されるな、と改めて感じた。
著者の既知には、知見や持論をはじめ、無論、想像上の創造までもが含まれている。
想像上には、視認性の認められていない妄想や願望の類いから表現し得ぬ雑多なものまでのすべてが内包されている。
想像と既知。一見、相反すると勘違いしがちな並列であるが──例えば、事実と反していようと、科学的根拠がなかろうと、知らねば…著者の思考に及ばねば…何も語られぬ、ということであり、既知と未知とで分岐すれば、やはり、既知の側に寄るのだ。
著作のジャンルがノンフィクションである場合、その覚束ない既知についての信憑性がなければ「知ったかぶり」という烙印が押されるだけであって、事実無根を信じる読者もアレだが、飽くまでも、著者の既知、という枠組みは失われない。
つまり、著者の既知とは、著者の未知の対極に位置し、読者の既知とは完全に切り離された領域にある、ということだ。答え合わせは、各々が自由に行えば良い。
著者の既知は、如何なる証明をも必要としない。
お裾分けには、中毒性と洗脳が含まれる。
本来、文章というものは、それを読解した者の思考を経て、脳内で十分に撹拌された後、色や香りが添えられるものだ。
例えば、無意味だと思われるセンテンスの羅列だろうが滲みる者には否応なしに滲み、理路整然とした正論だろうが刺さらぬ者にはテコでも刺さらない。
要するに、言葉に(某の事象を決定するに足る)特別な意味はない、ということだ。
その著者の紡ぐフレーズに琴線が触れてしまった場合、単なる語呂合わせや無意味であるはずの記号にですら、イマジネーションをくすぐられてしまう。
この制御不能などうしようもなさが、中毒性、である。
洗脳とは、中毒性の高い毒物だということを百も承知で放出しながら、被弾する側の心の動静には一瞥もくれず、読み手の思考の中心を──判断の拠り所を占拠せしむる、という、書き手の独善的な手法あるいは性癖のことだ。
つまり、毒気の集中砲火、ということだ。
お裾分けとは、体現止めされているにも関わらず、著者の既知を所構わずブッ放される、という、著者の能動が内包されているのだ。
心地良くなければ被弾する必要はなく、黙って本を閉じれば良いだけだ。…が、それができない。させてくれない。
お裾分けには、中毒性と洗脳が含まれる。
読書とは、著者の既知のお裾分け。
書の対象はISBNが発番されていない、商流に乗っていないものも含まれる。
SNSで垂れ流されている駄文・雑文も含まれている、ということだ。
僕は僕が知っていることを垂れ流す。信憑性などもどうでもいい。
僕が「オモロイ」と感じるものをお裾分けしているだけだ。
感想はそれぞれが勝手に抱けば良い。
言葉なんてのは本当に意味がないことだと思い至れば本懐を遂げる。
それでも人は無駄口を叩き続ける。無駄だからこそ重ねるのだ。
我が魂の命ずるままに──。
*2020.09.25・草稿
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