信・不信・無信
疑・不疑・無疑
これら定義の似て非なる差異が分からぬが故に、人は誤解を育み、決して分かり合えない。
願わくば達観せよ。
信じるのは各々の自由であって、それが正義であるとは限らない。
信じていることが動機だったとしても、それを他人が理解していると過信してはならない。
或いは、正義がすべて陽の要素であるという根拠もない。
破壊を望む者の正義は、客観的には受け入れられないものとして、最大の陰の要素であると推測されるからだ。
「信じる」とは、飽くまでも主観的な能動であって、本当に信じているならば「裏切られた」等という、受動的な被害意識を持つことはない。
もし、そう感じたとするならば、それは信じている自身の心が折れただけであり、客観的な事象なりには何の責任もない。
信疑の真偽は常に主観的いち情緒に過ぎない。
それが客観的決定的な正義となる根拠は極めて薄い。
通念上の正義は時代の風潮でいかようにも変容する。
例えば、喫煙の概念等がそうだろう。非常に分かりやすい。
…等と、換気扇の下で紫煙を燻らせながら、
我思う故に我あり
*2019.01.13 facebook投稿より転載
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