[エッセイ/随想]優しさの奥に潜む優位性
(2010/07/11 11:24:43)


人は他人の中に僅かな優位性を見出したとき、はじめて他人に優しく在れる。平たく云うと、優しい人は上から目線である、と云うことだ。


他人に何か施そうとするとき、自身の優越感を満足させるために他人を利用する。

結果的に双方にメリットがあることだから、それほど踏み込んで考えられることはないが、やはり、終局は「自己満足」と云うことで落ち着く。

例えば、失恋のショックで打ちひしがれている人を見たとき、「可哀想に」と云う「同情心」が生まれる。そして、その激励に至っては「分かるよ。辛いよね」などと理解を示したりもできる。

こんなとき、その言葉を受けた傷心の人は「優しい人」などと云う安らぎを得たりするが、よく考えてみれば、当事者でもない他人が自身の傷心の意味や理由などを真に知り得るはずはない。要するに「知ったかぶり」と云うことだ。

「傷つけば傷ついた分だけ人に優しくできる」とは、何度も傷心を繰り返し、都度、再生し、その障壁を乗り越えた者だけが得られる優しさなのだ。

障壁を乗り越える──ここに、その優位性の根拠を置く。自負、自尊心なども顔を出す。

自身の中に見出す屈強性こそが優位性の根拠なのだ。


この優しさの奥に潜んだ優位性には「侮蔑」も含まれていたりする。侮蔑と云えどそれほど重い意味ではなく、バカにする程度の、云うなれば「軽視」と云うことだ。

何故、このような気持ちが生まれるのか?

それは、自身の過去を振り返り、自身の中にも似たような経験・経緯があったことを発見し、それを乗り越えた現在の自身を知っているからだ。

自身が既に乗り越えた事柄で(つまづ)いている他人の様を見て「ああ。そんなところで」と軽視しているのだ。

──ここから更にスライドして「差別視」と云う大事に発展するのだが、人間とは本当に業の深い生き物である。


平等、平和を望む綺麗事の類いには、この人間の業を解消するための方策が敷かれていない。

平等では何も動かないのだ。高低差があるからこそ高きから低きへ。或いは、下克上という「逆流」が生まれるのだ。

そうして混濁した価値観の激流に揉まれながら「自身の真実」と云う救い難い自己との闘争を繰り返す。

自身の真実を知りたいのは自身において他はない。他人は飽くまで他人事なのだ。つまり、自己満足度を高めるためだけに人は呼吸する、と云うことだ。


他人に優しく在りたいと望む者は、この自身の中に眠る最大の強欲を掌握せねばならない。また、自身以外はすべて他人である、と云うことを理解していなければならない。

要するに「お互い様」と云うことだ。


「上か下かで云ったら俺が上だ。そこら辺、分かるか?」

と、居丈高(いたけだか)ながらに上目遣いでお伺いを立てる。この矛盾の中に「真の優しさ」が眠っている。

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