[寓話/お伽噺]自分のためだけにお金を遣いなさい・序
(2012/08/11 17:49:45)


駅前に張り巡らされた歩道橋を降りると、Sは真っ直ぐに喫煙コーナーへ向かった。歩き煙草は見た目にも格好良いものではないが、喫煙者にとって肩身の狭い世の中になって久しい。

喫煙コーナーは害虫駆除でもやっている勢いで煙がもうもうと立ち込めている。背中を丸めた仕事帰りのサラリーマンなどをすり抜け、設置灰皿の前に陣取った。

徐に煙草を一本取り出し咥えた。向かいのビルの屋上に設置された電光掲示板を仰ぎながら、オイルライターで点火した。

『この時間で30℃だって? そりゃ暑い訳だ…』

一服喫い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。


時間にして15分。仕事帰り、彼は決まってここに立ち寄り、この掃き溜め感を満喫する。

例えば、喫煙者と云うだけで「勝ち組・負け組」のような図式が浮かんだりする。何を見遣るでもなし、何を考えている訳でもなし、ここで煙草を喫っている者の視線は、皆一様に虚ろだ。

自己管理できない→仕事ができない→負け組。

喫煙者は自己管理できない人間なのだ、と。だが、その一方で某煙草会社はパッケージデザインを刷新したり、キャンペーンを展開して喫煙を促している。

あなたの健康を害するかも知れない製品を押し付けておいてアレですが、我々企業の存続のために、我々企業の従業員のためにも是非──。

貨幣制度に基づいた資本主義において矛盾はデフォルトであり、博愛や人間愛は遥か彼方で嘲笑している。


Sは先の短くなった煙草を灰皿で揉み消すと、その場から立ち去ろうとした。振り返り様に、はたと動きが止まった。

「お急ぎですか?」
「は? や、特には…」
「少し話しても構いませんか?」
「はぁ…」

Sの前には、およそこの場には似つかわしくない、身なりのこ綺麗な初老の男性が立っていた。Sは彼の突然の登場に少々面食らいながらも、「宗教とかには興味ないぜ?」と釘を刺した。それを聞くと初老の男性はにっこりと微笑んだ。

「宗教? 面白い。あなたは神を信じますか?」
「や、そう云う話だったら勘弁してくれってことだ」
「わたしは神仏の類いは一切信用しません」
「ほう」
「実存しないものに何を託せるのですか? 馬鹿らしい」
「フフ…」

長くなりそうだな、とSは感じた。

「で、何の話だ?」
「ああ、申し遅れました。わたしはMと申します。職業は…と。特に必要な情報ではありませんね」
「まぁ、そうだな。俺も名乗ったほうがいいか?」
「いえ、結構です。──話と云うのは他でもない」
「おいおい、いきなり初対面で、せっかちな人だな…」
「あなたにとって決して損になる話ではない」
「胡散臭えな、何の勧誘だ?」
「勧誘ではありませんよ」
「じゃ、何だ?」
「あなたにお金を差し上げます」
「え?」
「聞こえませんでしたか?」
「や、聞こえたが…」
「では、復唱の必要はありませんね」

Sは再び面食らった。何を云い出すんだ、このじいさん… 金をやるだと? 何故、どうして俺に?

Sの脳裏には様々な疑問符が旋回した。その様子を眺めながら、「ははぁ、あなたはわたしを信用していませんね?」とMが訊いた。

「や、どうして俺に? 何か理由でもあるのか?」
「理由がなくてはいけませんか? 理由のないことなど他にも沢山あるでしょうに」
「や、何だ、ひょっとしてアレか? 後になって『あのときの金を返せ』だとか…」
「いいえ、金銭消費賃借ではありません。差し上げるのです。返済の義務は生じません」
「そんなうまい話が何処に…」
「ここに転がっているのですよ」
「アンタ、イカれてるのか?」
「いいえ。至って正常なつもりですが」

Sは呆れて首を横に振った。

「分かった、分かった。担ぐんだったら他所当たってくれ。俺はもう行くぜ」
「担ぐ? 誰が誰を担ぐんですか?」
「アンタが俺を。でなけりゃ辻褄が合わねえ」
「辻褄が合わないことなど他にも沢山あるでしょうに」

うまく切り返せなかった。二の句が継げなかった。「理由」に次いで、今度は「辻褄」、前段では「矛盾」。確かに世の中は不条理で溢れている。なるほど、彼の云う通りかも知れないな、と感じた。

「お分かり頂けましたか?」
「ああ、何となくな…」
「わたしがあなたにお金を差し上げる理由など、どうでも良いことなのです」
「かも知れないな」
「では、わたしの申し入れを受けて頂けますね?」
「ああ、構わねえよ。幾らくれるんだい?」
「お好きなだけ」
「お好きなだけって…」

流石のSもこれには苦笑した。それを見るや否や、Mが帯付きの札束を懐から取り出した。

「差し当たって、ここに百万あります」
「百万…」
「挨拶代わりと云っては何ですが、これを差し上げましょう」

Mは帯付きの札束を惜し気もなくSに手渡した。

「これで信用して頂けましたか?」
「信用も何も… 現ナマは嘘つかねえよ」
「では、これからも宜しくお願いします」
「これからも…?」
「ええ、そうです。なくなったらわたしを呼んで下さい。連絡先はこちらです」

Mは名刺らしきものを差し出した。黒い紙に白抜き文字。社名や肩書きなどは一切載っておらず、携帯番号らしき数字しかなかった。

「必ず連絡して下さい。駆けつけますから」
「ああ…」

MはSの前から立ち去ろうと踵を返すと、思い出したかのように再び向き直った。

「ひとつ、云い忘れていました」
「何を?」
「あなたに差し上げたお金について、ひとつだけ条件があります」

Sがニヤリと笑う。こんなうまい話に条件がない筈ない。

「どんな条件だ?」
「そのお金はあなたのためだけに遣って下さい」
「俺のためだけに?」
「そうです。あなた以外の他人に寄付したり、施したりしてもいけません」
「他人にやらなきゃいいんだな?」
「そうです」
「分かった。貰った金は俺だけのために遣う」
「この条件だけは必ず守って下さいね」
「ああ、分かった」

Mはそれを聞くと、何事もなかったかのようにSの前から立ち去った。


『自分のためだけにお金を遣いなさい』

こんな好条件と降って湧いた幸運が他にあるだろうか? 宝くじに当たった訳でも何でもない。彼は煙草を喫っていただけだ。

Sは怪しさ満点の黒い紙片と偶像を祓い除ける札束を握りしめた。

To be continued...

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