by vincent.(2007/07/27 15:14:25)
このスペルの根幹。
虜=かき氷器の中の魚
を前提にすると、
魚が「我々」で、かき氷器は「世界」である、と云える。
そして、設置した者は──誰でもない。
「残酷さ」と云うものを「被虐的現象」として捉え、或る意味「被害者側」的な表現をしたが、被害者・加害者の括りで云えば、我々は誰もが「被害者」だ。
そして、悩ましいことに「加害者」が居ない状況である。
関連エントリーとして「コラテラル」を追加したのはそう云ったベクトルでの「関連性」を云っているつもりだ。
生まれた瞬間から何かの巻き添えである、と。
ただ、この辺りの論旨・根幹はかのショーペンハウアーなりが既に解いている。悲観主義(ペシミズム)なりがそれに当たるだろう。
かき氷器に設置された我々は生を擦り切らせるまでハンドルを廻され続け──
悲観論など誰にでも幾らでも綴れることだと感じる。
ただ、やはり大きな違いは「感受性」。
この1点に尽きる。
感じない者には捉えられないし、従って、被弾する確率も極端に低くなる。平たく「他人の痛みや哀しみに鈍感である」と。
そして、その被弾しない者が多数派を形成し、「常識」と云う魔物を陣取り、高確率被弾者である少数派を隔離・排斥しようとする。
ただ、それだけのことだ。
僕は少数派の味方で在りたい。
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