by vincent.(2007/12/14 08:28:46)
誤解を与え兼ねない表現があるので、少し補足しておく。
このスペルで「差別」と云う言葉を用いているが、これは、所謂、一般通念における「差別」とは似て非なるものである、と云うことをお断りさせていただきたい。
僕が思うに、一般通念における「差別」と云う概念には、どうも「優劣」に対する「比較論」ばかりが挙げられているだけだ、と、そんな風に感じられてやまない。
多分、「差」と云う文字の意味合いから、そう云った「格差」なりを見出すのだろうが… 分かり易く「区別」と云う言葉を遣えば良いのか…
或いは「分別」…
いずれにしても、分けていることには変わらない。
「分ける」と云う行為に綺麗事もへったくれもない。
少し考えれば誰にでも分かることだと思う。
「分ける」と云うことは、なにがしかを「定義」したとき、「多数決の理」に依って「常識」を「基準値」に祭り上げ、その基準値から反する「異物」を「迫害」し、「排斥」することだ。
大袈裟な言い回しで綴ったが、僕は生来、大袈裟好きなのだ。
「ひとりジェットコースター」の所以である。
故に、強烈な文言として捉えるであろう文言を、敢えてピックアップして叩き紡いでいるに過ぎない。
要は、普段、使わない脳細胞を酷使せよ、と。
故に、その言葉っ尻に対して立腹する向きと云うのは… 悪いが、僕の思うツボ、と云うことだw
脳内エピキュリズムとは、自我の反芻である。
他我の思惑などは、根底、元来、無関係なのだ。
僕は僕の為に駄文を垂れ流し、綴り連ねる。
それでも弁明とも取れぬこの文章を書き綴るに至らしむるのは、僕が「優由和憂」だからだ。。☆
あれ? ちゃんと言い訳できてるかしら?w ごめんなさいね。お赦されて♪
愉しんぢゃうべき☆ ねー
by vincent.(2007/12/25 04:22:07)
排斥の至るまでのルートを「差別」としたが、それに至る思考回路は「偏見」である。
「相対的」とは、「絶対的」の対極であり、「主観・客観」の立場とよく似ている。
1ベクトルから発する1絶対的思考。
それが「偏見」である。
凡そ、独断と偏見を以て、思考は構築されるものだ。
「興味」の矛先で捉えれば、興味の無いものは「排斥」され、興味のあるものだけ「優遇」される。
自己中心的でない人にお会いしたいものだ。
一体、何処に隠れているのだろうか?
ただ、思想は如何なるものでも拘束することはできない。
キャパシティと云う要素が最後の砦なのかも知れない。
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