[エッセイ/随想]対の概念考 - 二元論にて
(2024/01/15 11:49:55)


あらゆる「対の概念」について二元論にて考察したい。

対とは、正負、善悪、陰陽など対義語で表現されている概念だ。
対を成す両者はどこまで行っても決して交わることなく常に並行を保っている。

二元論とは、乱暴にいえば「両者の主張を肯定して論ずる」ということだ。
平たく、正義の味方には正義の味方の是があり、悪者には悪者の是がある。
それらを善悪の分岐で振り分けることなく(差別せずに)、双方の言い分を肯定する、ということだ。

ま、大抵は一元論(自身の好都合)で論ずるのが人間の性だと思うが。
それでは論理的思考はできないのだよ、日常に埋没しておる凡庸な輩共よ。←はい、コンプラw


さて、対とは、例えば「雌雄」といった対があり、それを「善悪」で比較したところで何らの意味も持たないと考える。無論、「優劣」という対で比較しても同様だ。いずれかが善悪に寄っている訳でもなく、優劣にも寄っていない。「雌雄」は「雌雄」であって、それ以上でもそれ以下でもない。

二元論で括ると、何とも爽やかテイスティな清涼感がみなぎってくるのは僕だけだろうか。要するに「自分は自分、他人は他人」ということの具体例だ。どこかで聞き覚えのあるこのフレーズは二元論での講釈なのだ。双方の是を肯定せよ、と。

あるいは、対という概念を「2等分」と捉えている向きが多いと感じている。

例えば、勝負。
「勝つか負けるかは 1/2」的な「確率論」で考えているのではなかろうか。
「フィフティ・フィフティ」「のるかそるか」…どうにも生温い。

「勝負」という対は「結果論」であって、確率論ではなく対比で考えるべきであり、僕は 1対99 であると考えている。ま、勝ち 1%、負け 99% ってことね。

「勝ち方」という「方法論」は何通りもあるが「勝利」という概念はひとつだ。勝利の対は敗北であり、勝者ばかりで溢れているとしたのならば、対である敗者という概念は成立し得ない。

これを先の二元論を純粋に当て嵌めると、、

「負け方」という「方法論」は何通りもあるが「敗北」という概念はひとつだ。敗北の対は勝利であり、敗者ばかりで溢れているとしたのならば、対である勝者という概念は成立し得ない。

──となり、「やぱ2等分じゃん」と早合点してしまうことだろう。

だがしかし、2等分ではない。2等分であろうはずがない。よしんば、2等分だとするならば、両者は対消滅して概念として成立していないはずだからだ。

この解釈には「正負の対」を用いると良いだろう。平たく「プラス・マイナス」。
正の数が「1」ならば負の数は「-1」だ。これらをプラスするとどうなるだろうか。

 1+(-1)=0

両者はお互いを相殺して消えてしまう。対として概念を維持できないのだ。

僕の対比はいわば「対の成分」といったところだ。平たく「内訳」。

 概念 100 を網羅するその内訳は 1 と 99 との双方で成立する。

この「1対99の内訳」で対の概念すべてを捉えてみると、まことしやかにその信憑性が高まり、思い当たる難問なりと合致、符合する。

「成功と失敗」ではどうだろうか。かの先人エジソンの言葉なりを引用せずとも、成功が 1 で失敗が 99 であることに腹落ちするだろう。*額面上の解釈ではないけれど、、

あるいは、、と、対の概念を総当たりしていたらキリがないので誌面の都合上、割愛←(これ 1 のほうw

 対という概念は2等分ではない
 ひどくアンバランスなバランスで均衡を保っている

──ということを覚えてもらったらこのスペルは本懐を遂げるので覚えてください、何の役にも立ちませんがb

そんな感じで♪

Tags: 二元論, 優劣, 善悪, 好都合, 本懐, 正負, 肯定, 陰陽


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