[エッセイ/随想]愛の方程式
(2010/04/19 10:16:47)


「わたしは誰も愛してない」と、その娘は云った。愛すると云うことがどう云うことだか分からない、と。

あなたには分かりますか? と。その質問には答えられなかった。

都合が悪いからではない。答えがないから答えることができないだけだ。


例えば、どんな問いにも答えがあるとする期待。これが「傲慢」の始まりだ。

答えがないと、どうにも落ち着かないのだ。答え探しに躍起になる。ときには、相手を追い詰め、自分を追い詰め、相手を傷付け、自分を傷付け──

発端は「自身の傲慢」。平たく「自身の存在」。

疑問が湧き上がるのは自身の存在があるからだ。自身の存在がなければ何の疑問も湧き上がらない。

僕はそれを「傲慢」と呼ぶ。「自己中心的でない人間など存在しない」と云わしめる根拠でもある。


答えがあることなど、ほんのひと欠片に過ぎない。にも関わらず、何かと翻弄され、足許覚束無いものだが…

訓示、見聞、経験則等々、それらもすべて「既知」の類い。先人の智慧などに頼ることなく、自身で習得可能な「既知の範疇」。

いずれにしても、某かをなぞっているに過ぎない。要するに、模倣であり、オマージュであり、アカシックレコードな訳だ。

例えば、キャリア、軌跡、轍云々。ボキャブラは豊富に転がっている。

違いは一点、自身の既知であるか、人類の既知であるか。

要するに、渇望しない者には得られない既知の類いである、と云うこと。


不完全だからだ。そして、不思議なことに不完全なことは恥ではない。

不完全が「然」なのだ。完全であれば、何事もなく溶ける。つまりは、何も生じない、と云うこと。

それでも尚かつ完全を目指す──。

何とも滑稽だ。


愛の方程式は解けない。それは愛に方程式などないからだ。

分からなくて当然。解けなくて当然。その存在すらも訝しい。

例えば、失ったときに気付く──だとすると、こんな図式が浮かぶ。

 自分−愛

そもそも自身に内包されていたものだ、とも推測できる。でなければ「自己中心的」と云う「自己愛」は成り立ちにくい。

それを他方へ向ける。ベクトルを変えているだけだ。


愛の方程式を解く鍵はキャパシティ。「赦す」と云う心だ。

だが、心と云うものは無形であり、あるのかないのかも分かりづらい。

他人のそれは分からなくても、それはそれほど問題ではない。ただ、自身のそれは何とか把握する術はありそうだ。

きちんと輪郭が描けていないと猜疑心しか生まれない、と云うのでは救いがない。

朧げな輪郭でも描けるのならば、それを稀釈して他人にも施す。

自己愛=ナルシズムと云うことが紐解ければ、或いは、キャパシティと云う最後の砦に辿り着けるのかも知れない。


愚鈍な自身に気付いたとき、心が切れて血が溢れる。

愛しいと書いて「かなしい」と読む。

哀しいから泣くのではない。ただ、心が切れて血が溢れているだけだ。


願わくば、手首から流れるそれと、同等に扱わないで。

どうか、自身を赦し、相手を赦し──。

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