20世紀が生んだ、かの大天才アインシュタインは「神はダイスを振らない」と曰い、不確定性原理を否定した。
八丈島に台風が直撃、三十年に一度といわれる奇異なコースであるという高確率を引き当てた現状、不意に彼の言葉が想起された。
そこから思考を巡らせるとひとつの想いに突き当たる。
生か死か──この二者分岐。
なるほど、2通りの解があるのでその確率は2分の1、50%と錯覚しがちだが、生あるものは必ず滅する、という事実を踏まえると、この分岐は成立しない。100%死ぬ。
では、何故生きているのか?
確率論を平たく噛み砕いてみるために、まず、百個の箱を用意してみる。次に、生と死をその箱の中に入れてみる。様々な組み合わせが考えられるが、99の箱の中に死が収まり、残1の箱の中に生が埋まる、という組み合わせに「尤もらしい」という信憑性を感じた。
或いは、生と死を互い違いにひとつずつ順番に収めて行く。生・死・生・死… ちょうど、50個ずつ。生きては死に、死んでは生き、と。「葉隠」における武士道の死生観のようでもある。
100分の1の生と100分の99の死なのか、50%の生と50%の死なのか──いずれにしても、これが生と死だ。奇跡の連続ということが、理屈からもイメージからも分かり易く浸透する。
前者は99の死から逃れ、たったひとつの生を勝ち得ているのだ。
後者は精神的な死を乗り越え、生を繋いでゆく、という解釈ができる。「脱皮」や「成長」なども連想させる。
また、前者を瞬間の確率論として捉えると、100分の1の生だが、それをクリアしたときに生のフラグを立てて行く仕様とすると、最後にはそのフラグが立たず死が訪れる、ということとなり、ちょうど、前者を逆転させた配置となる。99の生にひとつの死。それは同時に、その人の人生というプロセスを視覚化しているということでもある。
生きるとは奇跡の連続、といわしめた根幹が紐解ける。
何故、神はダイスを振らないのか?
──振る必要がないから、だ。
なるようにしかならない。
という緩叙法表現ではなく、
なるようになる。
という肯定表現が「事実」なのだ。
この必然性の説き方は秀逸だ。生きていることに偶発性はなく、すべてが必然である、と。
或いは、必然性の証明に現れる「アカシックレコード」なる概念も想起されるが、人は自身で運命を切り開いて生きていると思いたい生き物なので乱暴に割愛する。
いずれ必ず死ぬのに何故、頑張るのか?
頑張っても頑張らなくても必ず死ぬのに。
自身の死が、今このとき、この瞬間刹那ではない──からだ。
──こんな何の益にもならない夢想に想いを馳せながら窓の外で展開されている暴風旋回を見届けている。
台風直撃も、なかなか乙なものだ。
*2018.07.28・草稿 八丈島にて
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