「わたしは誰も愛してない」と、その娘は云った。愛すると云うことがどう云うことだか分からない、と。
あなたには分かりますか? と。その質問には答えられなかった。
都合が悪いからではない。答えがないから答えることができないだけだ。
例えば、どんな問いにも答えがあるとする期待。これが「傲慢」の始まりだ。
答えがないと、どうにも落ち着かないのだ。答え探しに躍起になる。ときには、相手を追い詰め、自分を追い詰め、相手を傷付け、自分を傷付け──
発端は「自身の傲慢」。平たく「自身の存在」。
疑問が湧き上がるのは自身の存在があるからだ。自身の存在がなければ何の疑問も湧き上がらない。
僕はそれを「傲慢」と呼ぶ。「自己中心的でない人間など存在しない」と云わしめる根拠でもある。
答えがあることなど、ほんのひと欠片に過ぎない。にも関わらず、何かと翻弄され、足許覚束無いものだが…
訓示、見聞、経験則等々、それらもすべて「既知」の類い。先人の智慧などに頼ることなく、自身で習得可能な「既知の範疇」。
いずれにしても、某かをなぞっているに過ぎない。要するに、模倣であり、オマージュであり、アカシックレコードな訳だ。
例えば、キャリア、軌跡、轍云々。ボキャブラは豊富に転がっている。
違いは一点、自身の既知であるか、人類の既知であるか。
要するに、渇望しない者には得られない既知の類いである、と云うこと。
不完全だからだ。そして、不思議なことに不完全なことは恥ではない。
不完全が「然」なのだ。完全であれば、何事もなく溶ける。つまりは、何も生じない、と云うこと。
それでも尚かつ完全を目指す──。
何とも滑稽だ。
愛の方程式は解けない。それは愛に方程式などないからだ。
分からなくて当然。解けなくて当然。その存在すらも訝しい。
例えば、失ったときに気付く──だとすると、こんな図式が浮かぶ。
自分−愛
そもそも自身に内包されていたものだ、とも推測できる。でなければ「自己中心的」と云う「自己愛」は成り立ちにくい。
それを他方へ向ける。ベクトルを変えているだけだ。
愛の方程式を解く鍵はキャパシティ。「赦す」と云う心だ。
だが、心と云うものは無形であり、あるのかないのかも分かりづらい。
他人のそれは分からなくても、それはそれほど問題ではない。ただ、自身のそれは何とか把握する術はありそうだ。
きちんと輪郭が描けていないと猜疑心しか生まれない、と云うのでは救いがない。
朧げな輪郭でも描けるのならば、それを稀釈して他人にも施す。
自己愛=ナルシズムと云うことが紐解ければ、或いは、キャパシティと云う最後の砦に辿り着けるのかも知れない。
愚鈍な自身に気付いたとき、心が切れて血が溢れる。
愛しいと書いて「かなしい」と読む。
哀しいから泣くのではない。ただ、心が切れて血が溢れているだけだ。
願わくば、手首から流れるそれと、同等に扱わないで。
どうか、自身を赦し、相手を赦し──。
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