「例えば──」
そう云い掛けた男の唇に、細い人差し指が押し当てられた。
「例え話は要らないのよ」
長い睫毛の奥から真っ直ぐな視線が向けられる。男は横を向いて、ほうと息を吐いた。
「どんな話がお望みかな?」
「そうね。例えようのない話がいいわ」
苦笑を浮かべる。
「面白い。今までそんな話を聞かされたことでも?」
「ないわ」
「だから、いつも沈んだ顔をしてるのか?」
「面白くないときでも笑うことはできるわ」
「女優だな」
「苦笑との見分けがつかないだけよ」
女の唇からほうと吐息が洩れた。男はゆっくりと煙を喫い込み、吐き出した。ゆらゆらと煙が汚染してゆく様を眺めながら呟いた。
「君は貧富の差が激しいんだな」
「──?」
「満たされている部分と満たされていない部分──その落差が段違いだ」
「わたしの何を見てるの?」
男は灰皿で煙草を揉み消すと、女の瞳に視線を向けた。喰い入るような視線が突き刺さる。
「美しくても恵まれてない」
何度が眼を瞬かせた後、女が笑いながら訊いた。
「それで何人くらい落としたの?」
男は横を向いて苦笑した。
「昔話が聞きたいのか?」
「いいえ。うんざりだわ」
「じゃ、煩わしい手続きは要らないだろ?」
「そうね。要らないわ」
「言葉を重ねるだけが会話じゃないんだぜ?」
「例えば──?」
女がはっと我に返った。男の口許には白い歯が覗いている。
遠くのテーブル席からグラスを割る音が響いてきた。男は頸を横に振りながら肩を竦めてみせ、出入り口の方向を眼で示した。
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