[荒野の銀狼]虚を食む
(2006/12/02 13:59:00)


「銀狼」

眠らない街の下卑た電飾が黒だかりの森の欲望をくすぐる。雑踏と喧噪──。固く閉ざされたアスファルトから狂った周波数が伝わる。真っ赤に錆び付いたナイフの風を満身に浴びながら彷徨う。


雑踏と喧噪の隙間から他を威圧する異質な周波数。はたと面を上げると白銀の狼。前脚を一本欠いた銀狼が黒だかりの森に紛れ、息を潜めていた。

周囲を見渡したが、森の樹々はこの状況が呑めていない。森の樹々は毒々しい発光体にしか反応を示さない。ひとり歩を停め、銀狼に視線を固定した。

向こうもこちらに気付いたようだ。銀色の牙を覗かせ、鈍色の眼光を投げて来た。

「──我が見えるのか?」

銀狼は直接頭蓋に響く周波数を発した。

「お前は?」

発声せず問う。

「無礼な。お前にお前呼ばわりされる覚えはない」
「一体、何をしているんだ?」
「知れたこと。追っているのだ」
「何を?」
「黙れ。お前と同じものに決まっておろうが」

銀狼が何かを察知した。

「──来た。獲物だ。捉らえて糧とせよ」

露骨に肌を露出した女が肢体をくねらせ歩いていた。怪訝な表情を浮かべたまま立ち尽くす。

「だらしない。退いておれ」

頭蓋に響いた瞬間、地を這う体勢から宙を舞った。鋭利な爪が女の躰の自由を縛った。金属質な女の悲鳴。腹の底に滲みる咆哮。銀色の牙が喉笛を掻き抉り、白い乳房を薙ぎ貫く。

深紅の海が漆黒のアスファルトに拡がる。肉を食む音と骨を砕く音とが鼓膜を呪縛する。為す術なく呆然と立ち尽くす。

銀狼が眼光を向ける。うっすらと慈悲の光すら見える。

「どうした? まるで乳飲み子だな」

何も応えない。否、応えられない。銀狼が嘲笑うようにひとり悦に浸る。

やがて、すっかり喰らい尽くすと、欠けていた前脚が再生された。それを柘榴の舌で満足げに舐め取ると、銀狼はその場から消えた。

『虚を食め。そして、孤を抱け──』

去り際に頭蓋の内側に呪文がこびり付く。雑踏と喧噪とが爛れたシーンを掻き消す。


「断崖」

滅多に鳴らない携帯電話がけたたましく喚く。悪夢から引き剥がされるように耳に押し当てる。

「どうした? 見たくはないのか?」

銀狼──。頭蓋に直接響く周波数。

「何故、この番号を?」
「くだらん。どうでも良いことを訊くから何も見えぬのだ」
「お前の姿は確かに見えた……」
「──それは当然のこと」
「何故?」
「追っているものが同じだからだ」

口の中の水分が蒸発してしまうような不快感。眉間に深い渓谷が刻まれる。

「──そうだ。谷だ」
「谷?」
「谷に往けば、お前の望むものが見える」

周波数が途絶えた。

『虚を食め。そして、孤を抱け──』

薄明かりが差し込む部屋の仄暗い壁面が両側から押し迫る。振り払うように紫煙を燻らしたが、指先が痙攣していた。やがて、重圧から逃れるように部屋から離脱した。

『谷へ──』

脳細胞繊維に谺のように乱舞する。黒だかりの森を目指した。

『森を抜ければ谷が在る筈だ──』

蹌踉めいた確信と誘惑の幻想が入り乱れる。衝き動かされるように地を蹴る。


「咆哮」

相変わらず黒だかりの森は優雅に唾液を垂れ流す。粘液で腐敗しても気付かぬままに息絶える。

靴底から伝わる見窄らしい周波数。嘔吐感に苛まれながらも頑に口許を結んだ。

ひと際大きな嬌声が轟く。一瞬びくっと肩を竦め、歩を停めた。

「ん? 何だコイツ? やんのか?」

脳波のイカれた茹で蛸が酒気を漂わす。取り巻きの蟷螂と食用蛙がみっともなく頬を弛ませる。

「何睨んでやがる? 文句があるなら──」

吐き終わるや否や、喉の奥から突き上げる波動が堰切った。臓物をすべて吐き出してしまう咆哮マグマが噴出する。そのマグマに茹で蛸と蟷螂と食用蛙はどろどろに灼かれた。

男は変化に気付いていなかった。否、意識せず完全メタモルフォーゼしていた。

いつの間にか四つ脚で歩いていた。男は狼に姿を変えていたのだ。

溶解した緑の粘液に背を向けると谷を目指した。銀狼の待つ谷へ──。

『虚を食め。そして、孤を抱け──』

呪文の意味が紐解け掛かっていた。

「食んでやる。待ってろ──」

メタモルフォーゼした孤狼の眼光には蒼白の悲愴感が宿る。


「飛翔」

果たして、谷は眼の前に在った。

否、谷ではなく塔。黒だかりの森を突き刺すように、摂理に反した重力の逆行を非道く陳腐に誇張する。

原生的な直感が孤狼を一番高い塔へと向かわせた。

「銀狼は待っている。必ず──」

蒼白の悲愴感がいつしか恍惚の期待感に変わっていた。紅蓮の焔が舞い散りながら眼光を縁取る。

頂きに到達すると、月光シャワーを浴びた銀狼のシルエット。

「ウム。よく分かったな──」
「一番高い塔の眼下には断崖が拡がっている」

銀狼が眼を細める。

「見よ。屑星で敷き詰めたまやかしの絨毯を」

切迫した黒だかりの鬱積が渦巻く欲望で発光していた。

「実に禍禍しい──」

銀狼はそう呟くと月を仰いだ。

「黒だかりの森は虚に満ちている」
「そうだな。そうかも知れないな」

銀狼の傍らで孤狼が呟く。

「我らは虚の餌食ではない。逆に喰ろうてやるのだ」
「それが虚を食むと云うことなのか?」

銀狼は孤狼を見遣る共なしに哀憐を注いだ。

「──可哀想な輩だ」

そう云うと、断崖の淵に立った。孤狼が眼を瞠る。

次の瞬間、銀狼の背中から銀色の翼が生えた。そして、透明なレールを滑るように天空を舞う。

「お前は一体…… 何者なんだ?」
「何者でもない。虚を食み、孤を抱く者」
「──」
「飛翔せよ。虚を食むとはそう云うこと」
「──」
「虚を食めば孤を抱ける」

微かな周波数が途絶えると、銀狼の姿が蒼白い月に呑み込まれた。孤狼の遠吠えが慟哭のように響き渡る。

慟哭の余韻醒めやらぬ中、孤狼の躰が暗闇に浮かんだ。


「摂理」

孤を抱いた魂の器は、やがて、血に飢えた翼の糧となる──。

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