[寓話/お伽噺]Yellow Stone
(2007/07/12 01:16:08)


「ごめんなさい」

真っ直ぐに視線を向けてきた女の子の唇から堪らず溢れ出した。男は左手の人差し指と中指に挟まれた煙草を深く喫い込み、ゆっくりと吐き出した。視線は片時も女の子から外さない。

「どうした? 急に」

ふっと眼を伏し、灰皿に煙草を置いて訊いた。女の子はそれでも視線を逸らさない。


「可笑しなことしたら… ごめんなさい」

男の口許が綻ぶ。

「何か、しでかすつもりでも?」
「いえ、特に予定はないけど… もし、そうなったら、と思って…」
「事前に釘を刺しておく、って訳だ。フフ、用意周到だ」
「そんなことない。いつも慌ててるわ…」
「いつも?」
「いえ、特に今夜は…」
「フフ、珍しいこともあるんだね」

大振りのロック・グラスの中の氷をカランと鳴らしてから接吻けた。

イエローストーン・オン・ザ・ロックス。

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イエローストーンの創業者は、ジョセフ・バーナード・ダント。ジョセフ・ワシントン・ダント(JWダント)の息子だ。

バーボンのブランドには創業者の名前から取ったものが多いが、彼の場合、父親の名前のバーボンが既にあったため、蒸留所を開設した1872年に誕生したアメリカ初の国立公園、イエローストーン・ナショナルパークに因んだ。

以前はサワーマッシュ方式よりも手間の掛かるメロウマッシュ方式で発酵させていた。

メロウマッシュ方式とは、粉砕した穀物の煮沸に一般的な圧力釜は用いず、蒸気の熱で時間を掛けて蒸煮する、と云うもの。独特の個性があったが、現在はサワーマッシュ方式に変わった。

爽やかな香りとフルーティーな甘みは、どちらかと云えば、女性向きのバーボンだと云えるだろう。

──が男の喉を軽やかに潜り抜ける。

「悪いことをしてないのに、謝る必要はないよ」
「それも、そうね」
「それに、ごめんなさいの予約は受付けてない」
「フフ。可笑しな人」
「謝らないといけないかな?」
「いえ、楽しいから全然構わないわ」
「優しい子で助かったよ」
「本当に楽しい」

女の子が眼を輝かせた。男が顎髭を撫でる。間を持たせるようにロック・グラスに接吻ける。落ち着きを取り戻すと、

「何故、可笑しなことになりそうだと?」

と悪戯っぽく尋ねた。

「え? あぁ… あたし、余り寝てないから……」
「睡眠不足の所為?」
「や、それだけじゃない、とは思うけど……」
「フフ。説明できないことを無理に説明することはないよ」
「じゃ、可笑しなこと訊かないで」
「全然、可笑しなことじゃないさ」
「じゃあ、どうして?」
「少し困らせたかっただけさ」

ふたりの間を視線のレーザービームが絡み合う。暫くして男が席を立った。

「え? 帰っちゃうの?」
「や、トイレ掃除の時間だよ」

女の子が微笑む。男はカウンターの脇にあるトイレへ向かった。戻って席に着くと、女の子はカウンターのほうで店長に何事かを話し込んでいる様子だった。

内緒話? と訊くと、女の子が慌てて席に戻ってきた。

ふたりの席の隣ではカップルが横になっていた。店長の計らいでブランケットが掛けられていたが、男のほうは気持ち良さそうに鼾までかいている。きっと愉快な夢でも見ているに違いない。

男が首を横に振りながら、女の子にアイコンタクトした。女の子が微笑む。

「大丈夫なんですか?」
「ん? 大丈夫でしょ」
「飲み過ぎ?」
「や、睡眠不足でしょう」

女の子の口許に白い歯が覗く。

「今日は本当に楽しい。真っ直ぐ帰らなくて良かった」
「そう?」
「うん。いつもひとりで来てるんだけど」
「そうなんだ」
「うん。真っ直ぐ帰るのもアレだし」
「フフ。店長、いい男だしね?」
「そんなじゃない」

まぁま、と男が宥める。女の子が機嫌を取り直して尋ねた。

「結構、このお店には?」
「や、今日で2回目だね」
「そんな風には見えないけど」
「ハハ。店長と仲良しだからね」
「そうなんだ」
「ああ。いい男にはいい男の友達が多いんだよ」
「ウフフ。面白い」
「うん。僕もそう思う」

ここで店長が割り込んできた。

「そう云えば、携帯番号知らなかったね?」

男が顔を上げる。

「そう云えば、そうだったね」
「赤外線受信で交換しようよ」
「うん。いいよ。便利な世の中だ」

男と店長は女の子の眼の前で互いの連絡先を交換し合った。何か云いたげな唇からは何も洩れ出して来ない。男が店長に尋ねた。

「さっき、カウンターで何を?」
「ん? ああ。ヤバイって」
「何が?」
「ヤバイ惚れた、って」

そう云って店長がニヤける。男は口髭を持て余した。女の子は黙ってふたりのやり取りを眺めている。

「そんなこと話してたの?」

女の子は黙って、こくりと頷いた。男が年甲斐もなくはにかむ。ロック・グラスの中の氷を指で弄んだ。

「また逢えると嬉しいな」
「そうだね」

そう云うと、男はグラスの底で甘く溶けた残りを呑み干した。

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