「さようなら」と「さらば」
別れの挨拶。
これで最後、と云う意味。
例によってボキャブラ解析。
さようなら──。
何とも切ない響きだ。
友達と遊んでいるときでも「またね」や「バイバイ」と云って、この言葉を避ける傾向にある。
日常の挨拶であるにも関わらず、重さを捉えられる言葉。そんな風に捉えることも出来よう。
この言葉に漢字を当ててみる。
左様なら。
恐らく外していない。
元々、これが語源だろう。
左様、と云う表現は縦書き文化のある日本独自の言葉だろう。「右に同じく」などと云う言葉もある。
ただ「右様なら」と云う言葉はない。
ここで「左右の関係」が浮上する。何が「左」で何が「右」なのか、と云う分岐。基準値の策定が迫られる訳である。
「右翼・左翼」などと云う思想もある。「右脳・左脳」などと云う臓器もある。その他にも「左右の関係」は多く存在する。
これらは某かの「中心・中央」がなければ成立しない概念群であると云える。真ん中がなければ右も左もない。「基準値の策定」と云うことである。
踏まえて「左様」とは「左の様」と云うことだ。
左様ならば…
この「…」の中に独自の「含み」が含まれる。
縦書きの文章は紙面なりの表現媒体の右側から始まり、改行される度に左側に進んでゆく。
と云うことは、文章の蓄積は必然的に「右側」に集中する。つまり、右側にアーカイブされてゆく。
にも関わらず「左様なら」である。ここで少々の疑問が浮かぶ。「左側、まだ何もないやん!?」。この状況を表すには「右様なら」が適宜では、と。
それでも「左様なら」なのだ。
この文節末の「なら」と云うのは「ならば」と云う「仮定形」である。プログラム構文的に「条件式」と捉えても構わない。
左様ならば○○である。
このような状況を説明しており、○○の部分が「割愛」されているのだ。
何故か?
──「終わり」だからだ。左に続くであろうはずの文章はここを境に断絶する。
継続に値しない、だとか、継続する意志はない、だとか… 未来を約束する言及を避けているのだ。
「左様なら」とは、そう云う意味なのだ。
このように「さようなら」を捉えると、この言葉を重く感じるのは必然の感情である、と云うことが感じられる。
左様ならば最後である。
この後半部分が省略されているだけなのだ。
それは幾ばくかの「情け」なのかも知れない。相手に対して追い打ちを掛けないための「配慮」なのだろう。
言外に思いを込め、それを汲む。
日本ならではの繊細なベクトルである。切なくもほろ苦く美しいのはこの所為だ。
僕は「さようなら」を云わない。
日常、劇団ひまわり的には使っても、本来の意味で使うことはまずない。
僕は生来より「寂しがり屋」だ。断絶の意思を相手に告げることができないのだ。
まだまだ何も終わっていない。
これからだ。そうだろ?
総じて未練の総大将である、と云えるだろう。
ただ、それが寂しがり屋の「社是」なのだ。経営者の定めた経営方針には逆らえない。
そこで「さらば」と云う言葉が浮上する。
漢字を当てる。
去らば──。
平たく「去るならば」と云うことだ。
去るならば○○である。
この○○の部分に何が嵌るのか──。
この問題が寂しがり屋本舗の一番の命題なのだ。早急にこの問題を打開せねば経営存続の危機にまで及ぶ…
──穏やかならぬ一大事なのである。
…ではあるのだが百も承知で。
今暫くは「棚上げの美学」…☆
そんな感じで♪
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