[寓話/お伽噺]慟哭と愉悦
(2008/01/13 15:12:25)


受話器を耳に押し当てると、言葉にならない慟哭が響いてきた。嗚咽混じりの悲痛な叫び。金属質な金切り声。

きっと、どんなに優秀な翻訳家でも仕事にならないだろう。

それでも、しゃくり上げながら懸命に弁解を試みる。何段飛ばしの飛び石投げっぱ。センテンスの尻切れトンボ。

彼は為す術なく、受話器を握りしめたまま茫然と立ち尽くすだけだった。


「…なさい……」
「──」
「……ごめんなさい…」

ようやく聞き取れるフレーズが流れた。

「分かればいいんだよ」

彼は囁くように呟いた。

「そうじゃない… そうじゃないの……」
「何が?」

「そんなつもりじゃなかったの……」
「……そうか」

きっと、何かが滲みたに違いない。捉えられなくても感受性が傍受したものを呑む。否、捉えられなくとも感じるのだ。

理解不能より理解不要。成る程、やはり聡明だ。

「もう、泣かないで。涙が安っぽくなる」
「でも……」
「いいんだ。僕もキツく云い過ぎた…」
「でも、思ってないことはゆわないんでしょ?」
「ああ。そうだね。思ってないことはクチに出ない」
「じゃあ……」
「じゃあ──何?」

しばしブレス。聴覚だけが頼りだが、そこからも阻害される。

沈黙は苦手だ。義務感から発せられるものではなく、暗黙の了解を呑め、と云う稚拙な傲慢が鼻に付くからだ。

説明不要の対極には恐ろしい武器が隠されている。

「それで泣いたんじゃないのか?」
「……え?」
「思い当たる節があると、人は罪悪感を感じるんだ」
「……」
「だから泣くなと云ったんだよ」
「……」
「安っぽいだろ?」

再びブレス。彼は構わず続ける。

「指摘や攻撃なんて生易しいものじゃないんだ」
「……」
「ハードボイルドに情緒はないんだよ」
「……」
「あるのは動かざる現実だけ」
「……」
「逃れられない現実が一番堪えるのさ」
「……」
「だから心が切れて涙が溢れる」
「……」
「涙は心の血液なんだ。無駄遣いしちゃいけない」
「……」

ひと呼吸置いた。

「落ち着いたかい?」
「何とか……」
「そうか」

受話器の向こう側に居る彼女の輪郭を撫でるように、彼の眼差しは虚空を彷徨っていた。

「どうして電話を?」
「どうしてって……」
「赦し──を請うため?」
「それは……」

彼の口許に笑みがこぼれる。

「大丈夫」
「え? 何が……?」
「もう大丈夫だ」
「……」
「電話の声を聴いた瞬間に氷解した」
「あなた……」

彼が口髭を撫でた。

「赦す赦さないで云えば赦す」
「……」
「僕はそんな所で君を括っていない」
「……」
「君はそんな壇上には居ないんだ」
「わたしは何処に居るの?」
「何処?」
「ええ。わたしはあなたの何処に居るの?」

「特別だ」
「特別?」

「そう。低い次元に置いてない」
「それはあなたの買い被りだわ……」
「買い被り?」
「そうよ。わたしは、そんな……」
「いいんだ、それで──」
「何故?」

「僕がそう決めたんだ」
「あなたって……」

「自分勝手な人?」
「ええ。自分勝手な人」
「ああ。自覚してるさ」
「自分勝手で優しい人」
「フッ。おだてても何も出ないよ?」

「どうしてわたしは特別なの?」
「厭かい?」
「厭じゃないけど… 理由が知りたいわ」
「理由──ねぇ」

彼は天使のように微笑んだ。

「僕の独断と偏見だ」
「え?」
「それと贔屓目も入ってる」
「あなたって…」
「なんて馬鹿な人?」
「ええ。ホントに馬鹿な人」
「その馬鹿な人を好きなのは誰なんだい?」
「それは…」

受話器から微かに笑みが洩れて来る。

「いいんだよ、それで」
「ええ。やっと分かったわ」
「何が?」

彼女は深く息を吸い込み、祈るように囁いた。

「あなたはわたしの大事な人」

彼の口許に微笑が浮かぶ。

「さっきの涙は何処へ?」
「知らない。何処かへ飛んでったわ」
「フフ。軽いんだね」
「そうね。安っぽいわ」


沈黙──。
否、心地好い静寂。

彼はこの静寂を好む。
同じ無音の世界でも種類がある。

五感の機能を度外視して通じ合う何か。説明不要の対極には未曾有の愉悦が眠っている。

「矛盾」とは、こう云うこと。

切っても切れない。
決して分つことはできない。

これを「魂の連鎖」と呼ぶ──。


願わくば、心地好い拘束に身を委ね、
逃れられない束縛に溺れ給え。

我が魂の命ずるままに──。

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